結局『ランド・オブ・プレンティ』ではアメリカに対する“外部”を示し得ていない。イスラエル帰りの少女ラナがアメリカに対する“他者”なのかと観る前は思っていたが、彼女はニュートラルな存在として描かれている。別に反米の映画を期待していたわけではないので、そのチョイスが間違いであるとは思わないし、前回書いたように彼女の姿勢は安易な反動に傾かない、毅然とした美しさを感じるものでもあった。
しかし、アメリカを戯画化した存在としての伯父ポールが、結局ベトナム戦争のトラウマと後遺症によりその行動を整合化されてしまうのは、ちょっと安直な図式化ではないか。そういう意味でやはりこの映画はわりと直球のアメリカへのラブレター(青山真治)と言えるかもしれない。
一方の『アワーミュージック』では、直接的にはほとんどアメリカは描かれていない。インタビューでゴダール自身が、「アメリカにわざわざ言及する必要はないんです。彼らはつねにそこにいるからです。」と語っているようにアメリカは不在の中心として扱われている。それにしてもアメリカ水兵の警備する天国とはなんたる皮肉だろうか!特に我々日本人にとっては・・・・・・
「ファック ブッシュ」という言葉だけが、なんだかファッションみたいに一人歩きを始めているような気がする。いったい私たちはどのような場所に立ちそれを言うのだろうか?そこが米軍の警備する天国だとしたら?もちろんいうまでもなく、このような誤読は無粋である。しかしそのように考えたらなんだかゾッとした。
「考えるな、見よ!」という少女ラナの態度を最初『ランド・オブ・プレンティ』を評した文章のタイトルにしていたのだけれど、それだと『ランド・オブ・プレンティ』という映画を、考えずにとにかく見よ!と煽っているかのような印象をもたれかねないので、「と彼女は・・・・・・」と付け足した。しかし考えてみるとこの言葉はむしろゴダール映画にこそふさわしい態度ではないかと思えてきた。
ゴダールの映画は難解でよくわからないと多くの人が言う。しかし、そもそも“わかる”とはどういうことだろうか、そして本当に“わかる”ということは可能だろうか?
映画は(あるいはすべての表現作品は)公開するやいなや観客という“他者”に晒されることになる。そこでは、観客それぞれが各々のやり方でその作品を解釈することだろう。そのようなそれぞれの解釈に対して作家がその解釈は違う、私の言いたいことはこうこうこうだ!などということ出来ない。もしそのような直接的な言葉で表せるものであれば(仮に言葉で表現したとしても事態は一緒なのだが)彼は表現という手段を選ぶべきではないし、そもそも“他者性”に対するこの恐るべき事態(命がけの飛躍、あるいは暗闇の中の跳躍)に対する認識がないのであれば彼は表現者失格である。
しかし、ゴダールの映画はなによりも私たち観客にとって“他者”として現れる。そこでは通常の物語において、あるはずのものが欠けており、あるはずのないもの(あったとしてもあまり関係のなさそうなもの)がやたらと強調されているかのように写る。作品を球体として表すならば、それは異常にデコボコと突起物の飛び出た、いびつな形をしていると言える。受け手はそのようなでっぱりに対してあちこちに補助線を引き、あるいはデコボコしたものを器具などを用いてなめし、出来るだけ滑らかな球体にして咀嚼しようと試みる。しかし、なによりこのいびつでデコボコの球体をそのまま丸呑みしてみること。そして胃袋の中でその異物感をいつまでも噛みしめること。そのような体験として、いや、むしろ飲食事故として出会うならばゴダールほど“わかることを必要としない”映画はないのだ。(それは“わかる”こと“わかりあえること”の困難をめぐる体験であるのだから、そのことをわかることは出来ない。)
もちろんゴダールの作品もまた“他者”と向き合う以上、解釈される事もしかたがないといえるのだが・・・・・・(そして私もそれをやっているのだが・・・・・・)