ゴダールは西欧中心主義者だ、といった批判がある。確かにそうかもしれない。彼は映画『アワーミュージック(私たちの音楽)』(原題Notre Musique)の「私たち」とは誰か、といった質問に答えて、あえて言うならばヨーロッパ人だ、と答えている。
ならば、ゴダールは西欧という閉域に閉じ込められた人、であろうか。インターナショナルである事とは、単に世界中を飛び回っているといった事を指すのではないだろう。彼は西欧の起源、あるいはそのぎりぎりの処を目指している。そこにこそ真の“交通”が開かれているだろう。そして今作品で彼がその“交通”(いうまでもなく交通には戦争も含まれている。)の場所に選んだのはサラエヴォだ。
ゴダールは、自身のユダヤ人や、パレスチナ人に対する共感を、自分が映画から排除されているといった認識からくるもので、いわばマージナルな者への共感として語っている。そう、彼はいまや映画界、唯一の“他者”だといえる。そして彼は自身の映画にもその“他者性”(あるいは“ノイズ”)を導入してきた映画作家だった。
以前私は、彼の映画にはコミュニケーションがないように見える、と言ったが、そもそも彼の映画には、そのような対称的な関係を規定する、同一性に回収される線的な意識の流れ(物語)は存在しないのではないだろうか。セリフは、あらゆる書物からの引用で埋め尽くされる。しかも、それは周到に配置されているというよりも、むしろ強引に引き剥がし、糊の跡も生々しく貼り付けられる(カットアップ)。それらはまさにポリフォニーな声となってたち現れるほかないだろう。
また、その線的な意識の流れの否定は、ゴダール映画を特色付ける音楽においてより鮮明に現れている。ゴダール印といわれる、あの唐突に「ブツッ」と切れる音楽、そして一瞬の無音、再び環境音が立ち上がるといった不自然な脱臼は今作品でも健在だ。このような脱臼により私たちは何度となく意識の流れを断ち切られる事となる。
そして、映像。この作品で(ゴダール自身が演じた)映画監督ゴダールは、学生達への講義の中でスチール写真を用い「構図、逆構図」、つまりは「切り返しショット」を解説する。“男性”と“女性”、“ユダヤ人”と“パレスチナ人”。非対称な物を対称的に扱う時に暴力は生まれる。非対称な物のポリフォニー、その縦横無尽なカットアップ、それが私たちに、いまだ見たこともないようなイマージュを与える。そして、それこそが彼にとっての「映画」であろう。
“他者”とは自分と対称的な関係にあるような者では決してない。しかしそのような認識にたった上で、やはり私たちは「単なる会話」を始めるべきなのだ。
この映画のラストに用意された「天国編」は果たして、菊池成孔のいうように体温が上昇し、頬が紅潮する、ストレートな感動を呼ぶものといっていいのだろうか。あるいはそこには、明るく軽やかな「救済」があり、ゴダールの若い世代への優しいまなざしが息づいていると・・・・・・
この映画でほとんど描かれる事のなかった「不在の中心」としての“アメリカ”の水兵が警護する川岸で、ボールのないビーチバレーに興じる若者とは、私たちのことではなかったのか。