ジョン・ケージはこのように、ある一定の時間の枠で切り取られた「音」を音楽作品の根拠として暴き出した。そこでは演者の作品に関する作家性などとは無縁に、パッケージングされた「音」はすべて騒音から切り離された作品として市場価値をもちえるのだ。
このようにラディカルなコンセプチュアル・アートの元祖ともいえるものにマルセル・デュシャンの「泉」がある。そう、あのただの既製品の男性用便器に署名して出品を拒否されたという曰くつきのあれだ。それは、デュシャンのレディ・メイド(「既製品」の意)というシリーズの一つとして発表されたという。デュシャンは果たしてこのありふれた便器の造形の中に美を見出したのだろうか。
そもそもこの作品の出品を拒否したアンデパンダン展というのは、無審査、懸賞無しで、6ドル支払えば誰でも出品可能というものであり、デュシャンはこの展覧会の実行委員長でもあった。デュシャンがこの出品拒否に関ったか否かは定かではないが、この出品拒否、そしてその後のデュシャン(それは無記名でなされた)による「リチャード・マット事件」という名の抗議文(リチャード・マットとは作品「泉」に関して便器になされた署名)、これら一連の流れを含めてデュシャンによるコンセプチュアルな作品とみなす事が出来るだろう。
ここでデュシャンによって暴かれたのは美術館と言う名の「制度」そのものに他ならない。ある作品が芸術と呼ばれうる根拠とは、まさにただその作品が美術館に置かれていたという事実それだけだ。これがトートロジーでなくてなんであろう。美術館という枠の中に囲い込まれる事によってはじめて作品は芸術という名の「アウラ」を授かる事が出来るのだ。それがただの出来合いの便器に過ぎないとしても。
このようにデュシャンとケージは、芸術あるいは表現という名の神話を、その本質が単に「枠」で切り取る事であると看破してみせたのだ。 (続く)
(補)
デュシャンとケージには実際に親交があったようなので、ケージの「4分33秒」がデュシャンの「泉」からインスパイアされた可能性も否定できないだろう。またケージは、デュシャンの死後、「マルセルについては何もいうまい」というアクリル板のオブジェと、同名の音楽作品を発表している。